1783年8月4日、浅間山で発生した天明大噴火は、関東平野一帯に甚大な被害をもたらしました。噴煙は成層圏にまで達し、江戸でも降灰が確認されるほどの規模でした。特に鎌原村は溶岩流と火砕流により壊滅的な被害を受けましたが、村人たちはその後の困難を乗り越え、村を再建することに成功しました。この歴史的な復興の物語は、防災の命を守る行動が先ず必要であることを示しています。
噴火、溶岩流、洪水による甚大な被害
1783年8月4日(天明3年7月7日)浅間山・天明大噴火
浅間山で天明の大噴火が発生し、この日の夜から噴火が激しくなり、噴煙は成層圏にも達するほどまで上昇し、江戸でも降灰がみられました。
さらに、翌8日にかけて鎌原火砕流と鬼押出し溶岩流が発生し、噴出物の堆積で下流の利根川でも洪水が生じるなど関東平野一帯にも甚大な被害をもたらしました。
よみがえった鎌原村~天明浅間山噴火
浅間山の麓にあった鎌原村は、1783年の大噴火で大きな被害を受けますが、村人は困難を乗り越え、村を立て直しました。
発掘で見つかった2体の遺骨
1979(昭和54)年に鎌原村の発掘が行われました。村の小高いところにある観音堂へ続く15段の石段を掘り下げると、その下には更に石段が35段埋もれていて、その最下段のところで背負う人と背負われる人の格好をした遺骨が2体発見されました。調査の結果、2体の遺骨はともに女性で、背負われた人は45~60歳、背負う人は30~50歳、お互いに血縁関係がないことがわかりました。
当時、発掘に当たった専門家や村の人たちは、岩なだれから逃れようとお嫁さんがお姑さんをおぶって必死に高台にある観音堂を目指したものの、途中で力尽きてしまったのではないかと推測しました。
江戸時代には大きな災害に遭って家族を失っても、村を離れて生きることは大変困難でした。自分たちが生きていくためには村を蘇らせるしかありません。残念ながら、お姑さんを背負って途中で倒れてしまったように、その思いを遂げることができない人もいましたが、鎌原村の生き残った91人の人々は、新しい家族を作り、子孫を増やして、村を立て直すことを決意しました。
苦労を重ねた村人の結びつきは大変強く、30年後にはようやく家も畑も元の3分の1ほどまでに回復しました。村人たちは災害から立ち直った経験から、何事にも打ち克つ力を得たのです。
出典 内閣府防災情報のページ|災害を語りつぐ
多方面にわたって進められた復興作業
家と村の再建
鎌原村は、人も土地も甚大な被害を受けたため、その復興作業は、家族の再構成、家屋の再建、荒れ地の再開発と再配分など多方面にわたって進められた。
出典 内閣府防災情報のページ|過去の災害に学ぶ
当時の村においては、格式や挨拶の仕方などにおいて厳しい身分格差が存在したが、被災直後には、近隣の有力百姓が中心となって、それまでの家格にこだわらず、鎌原村の生存者全員に親族の約束をさせ、そのうえで妻を亡くした夫と夫を亡くした妻とを再婚させたり、親を亡くした子を子を亡くした老人の養子にしたりして、人為的な家族の再構成が行われたのである。
このようなかたちでの家族の再構成は江戸時代においても異例のことであり、非常事態に際してギリギリのところで発案された、民衆の知恵の発露だということができよう。
以上のような方法による鎌原村の再建は、「復旧」という語の範囲を超えており、「新生」といったほうが適切かもしれない。
出典 内閣府防災情報のページ|過去の災害に学ぶ
防災への教訓
以上のことからわかるのは、復興を個々の家任せにせず、村(共同体)全体として復興を進めようという姿勢である。
また、各地の有力者が、村や地域のために私財をなげうって復興に尽力したことも重要である。行政当局と地域リーダーと村(地域社会)に依拠した一般被災者とが役割分担しつつ一致協力することによって救援と復興を進めることの重要性は、昔も今も基本的に変わっていないといえよう。
出典 内閣府防災情報のページ|過去の災害に学ぶ
まとめにかえて
災害で人も家も甚大な被害を受けた地域では、復興作業も多方面にわたり個々の家や地域が取り組む必要があります。被災後の復興も考えた場合、事前防災の取り組みも個人、地域双方が考えておくことが大事です。
日本は災害の多い国と言われています。過去に起こった多くの災害で、何度も被災しながら復興をし続けて今の社会があるのだと思えます。
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